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天筒山城~金ヶ崎城攻略の足跡をたどる!

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最近の大河ドラマでは、『麒麟がくる』(2020年)、『どうする家康』(2023年4月16日放送)でも取り上げられているのが「金ヶ崎の退き口」のエピソードです。織田信長にしては珍しい撤退戦であり、また織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三武将が勢ぞろいしたことでも見逃せない戦です!そこで今回は、天筒山城から金ヶ崎城へと彼らの足跡をたどってみました。

金ヶ崎の退き口のエピソードとは

永禄13年(1570年)4月20日、織田信長・徳川家康連合軍が3万の軍を率いて越前の遠征に向かいました。4月25日、越前の朝倉義景領に進攻した織田・徳川連合軍は、天筒山城など敦賀郡の朝倉氏の城を攻撃し、翌4月26日に金ヶ崎城で朝倉景恒に勝利します。しかし近江の浅井長政が裏切ったという情報が入り、挟み撃ちになることを回避するために、信長は撤退することを選択します。そのときに殿を務めたのが豊臣秀吉であった、というのが金ヶ崎の退き口のエピソードです。

 

場所

天筒山城、金ケ崎城は、現在の福井県敦賀市にあります。

天筒山城址から、金ヶ崎城址にかけては尾根伝いにつながっています。それでは、彼らの足跡をたどるべく、まずは手筒山城址を目指してみましょう。

 

天筒山城址

残念ながら天筒山城の痕跡は、あまり残っていません。唯一、東部と南部に遺構が残されているのみですが、痕跡を探しに行くには、まずラムサール条約湿地に登録されている中池見湿地に向かいます。

 

中池見湿地

公共交通機関で行くならコミュニティバス、車で行くなら藤ヶ丘駐車場がおすすめです。しかし、尾根伝いに金ケ崎まで行った場合、同じ道を引き返すのはかなり大変なので、金ケ崎から一旦麓に降り、山の裾野を回って駐車場まで戻ってくることになりそうです。その場合、所要時間は2時間程度です。

金ケ崎(天筒山)公園案内図

中池見湿地は、昔ながらの里山の風景が残されている場所で、鳥や魚などの生物が多数生息しています。ビジターセンターや遊歩道が設置されているので、自然を満喫するにはもってこいの場所です。

開園時間:午前9時から午後4時30分
休園日:毎週月曜日(休日の場合はその翌日)、祝日の翌日、年末年始。加えて12月1日~2月末日。

閉園時は駐車場からの入口の扉が閉まっていますが、閉園時用の出入り口があるので、出入りは可能です。入口から徒歩8分ほどで中池見湿地に到着しますが、結構急な階段もあるので、歩きやすく滑りにくい靴で行きましょう。

中池見湿地

中池見人と自然のふれあいの里 敦賀市-Tsuruga City-

そして、天筒山の方へ登っていきます。

 

天筒山城の東部・南部遺構

階段

現在の道はわりと階段が多いです。戦国時代の人は、どのようにしてこの山を登っていたのでしょうか?この傾斜を見るだけでも、当時の城攻めが大変だったことがわかります。

道中に、郭①②、堀切①-③、切岸①-②が登場しますが、切岸②が見つかりませんでした。

 

郭(くるわ)

郭②

郭(くるわ)は城の最小単位で、兵がこもるために周りより一段高く区画された平面のことです。少しでも高い位置にいたほうが、戦では有利ということですね。

 

堀切(ほりきり)

堀切①

堀切は、敵の進軍を遮るため尾根を切断するように掘られた空堀です。今はこのように階段がつけられている箇所もあるくらいなので、ここが削られていると、進軍が困難になることは明らかです。

 

切岸(きりぎし)

切岸①

切岸(きりぎし)は、斜面を切りとり急斜面にしたもので、途中に犬走り(狭い通路上の段)を設けることもあるそうです。ちなみに下に見えるのは国道8号線です。

ただでさえ、尾根伝いの道なので道幅が狭いのですが、更に斜面を削ることで、おそらく一人ずつしか通れないような道にしているということだと思います。織田軍は3万だったと言われていますが、その行列は何処まで続いていたのでしょうか?

ここまで中池見から1キロほどで、20分程度かかります。では、山頂の方へ向かってみましょう。ここからは舗装された坂道になります。

 

天筒山山頂・見張台跡

残念ながら、城郭の痕跡は残っていません。山頂は現在では公園になっており、休憩所や、お手洗い、展望台があります。

展望台

展望台からは、敦賀市が一望できます。

展望台からの眺め

旧敦賀港や、日本三大松原の一つである気比の松原を見ることができます。

見張台跡

天筒山城は、山頂付近に人工的に削平地を作っていたものと推測されています。山頂付近はわりと広いので、大きなお城があったのかもしれません。

さて、天筒山城を攻略したので、次は金ケ崎に向かってみましょう。ここからは階段を降りていきます。「熊に注意」の文字があちこちにありますので、お気をつけください。

 

金ケ崎城址

一の木戸跡、二の木戸跡

天筒山を一旦下り、金ケ崎に向けて再び登る途中で、木戸跡がいくつか登場します。

一の木戸跡

ここは金ヶ崎城の最初の関門跡です。南北朝時代には激戦があったと伝えられており、戦国時代朝倉氏もこれを利用していたそうです。

二の木戸跡

文字通り2つ目の関門で、南北朝時代にはこの付近でも激戦があったそうです。

 

焼米石出土跡

焼米石出土跡遠景

戦国時代、金ヶ崎城の兵糧庫があった場所です。織田・朝倉の攻防戦で落城の際倉庫が焼け落ち、その焼き米が後に出土したと伝えられています。

焼米石出土跡近景

兵糧庫があったとのことですが、それほど広くありません。山城では用地の確保が大変ですね。

 

三の木戸跡

城に向けての最後の関門です。付近には、堀切もあります。

堀切

文字通りの断崖絶壁!落ちたらひとたまりもありません。

そしてたどり着くのが、金ヶ崎城址です。天筒山山頂からは20分程度です。

 

金ヶ崎城址・月見御殿跡

金ケ崎古戦場

少し開けた土地があり、金ケ崎古戦場の碑が立っていますが、これは後述する南北朝時代の「金ヶ崎の戦い」のもので、戦国時代の「金ヶ崎の戦い」のものではありません。そして、この土地の先端部には月見をするための場所、月見御殿(つきみごてん)がありました。

月見御殿跡

この付近が金ケ崎の最高地で、金ヶ崎城の本丸があった場所です。『麒麟がくる』(31話)でも、金ヶ崎城で光秀が浅井の出兵を信長に報告し、撤退を勧めるシーンがありました。それがここだったのかと思うと、感慨深いものがあります!ただドラマを見る限り非常に広そうなお城でしたが、はたして実際の土地の広さを考慮してあのセットが作られているのかどうか?

月見御殿からの眺め

今では、敦賀新港(フェリーターミナル)、右手に火力発電所があり、当時の面影はありませんが、月は今も昔も変わらないはず。江戸時代に松尾芭蕉が、敦賀で中秋の名月を見たいと足を運んだことからも、敦賀での月見は格別であったことが推測できます。

皇太子殿下台臨の跡

海側から振り返った風景です。明治42年9月21日と裏側に書かれているので、後の大正天皇が行啓された記念の石碑です。先に述べたように、この地は南北朝時代の「金ヶ崎の戦い」つまり後醍醐天皇の第一皇子尊良(たかよし)親王、皇太子恒良(つねよし)親王縁の地でもあるので、天皇家にもご縁がある場所です。ちなみにさらに昔は、この場に古墳があったそうです。

以上が、天筒山から金ケ崎への経路なのですが、その後織田軍は滋賀県の朽木を通って京都まで敗走したそうなので、そのまま山を降りてみましょう。

 

おまけ:南北朝時代の「金ヶ崎の戦い」

金崎宮の方に下っていくと、尊良(たかよし)親王が自刃をされた場所が保存されています。

 

事の経緯

後醍醐天皇が建武の新政を行っている最中、足利尊氏との間に建武の乱が起こり、足利尊氏が九州まで敗走します。しかしその後、尊氏は軍を立て直し、建武政権は崩壊します。新田義貞は後醍醐天皇の二人の皇子、尊良親王と恒良(つねよし)親王や公家たちを伴って、金ヶ崎城に入ります。

しかし越前国守護・斯波高経(しばたかつね)が金ヶ崎城を包囲し、兵糧攻めにします。更に尊氏は高師泰(こうのもろやす)を援軍として派遣し、ついに金ヶ崎城は落城。尊良親王と新田義貞の長男・新田義顕は自害し、恒良親王は京に護送された後に毒殺されたと言われています。

 

尊良親王御墓所見込地

尊良親王御墓所見込地への階段

遊歩道の脇に、立て札が立っています。

尊良親王御墓所見込地

江戸時代末期に、この地付近から経塚が発見され、石室から銅製の経筒、円鏡、椀が出土しました。しかし立証する資料が乏しく、また京都市内に尊良親王の御墓所が指定されていることから、現在では、親王御台臨、自刃の地として保存されているそうです。

尊良親王は歌詠みがお上手な方だったようです。後醍醐天皇の第一皇子でありながらも天皇になることができず、不遇の死を迎えられました。自害の場面は『太平記』にも描かれています。

 

金崎宮

金崎宮は桜の名所として知られる神社で、尊良親王、恒良親王が祀られています。

金崎宮

残念ながら桜は散った後でした。

金崎宮本殿

春には「花換まつり」が開催されます。尊良親王と妻の恋愛伝説などをもとに、桜の枝を交換して思いを伝えるという風習があります。

また信長が難関を突破したということから、難関突破の神社としても知られています。信長の妹・お市の方が、信長の窮地を知らせるために、袋の両端を紐で結んだ袋に小豆を入れて届けた、という逸話にちなんだお守りもいただくことができます。

金崎宮参道

金ケ崎方面はとにかく階段が多いです。徳川家康ののぼりがたくさん立っていましたが、

金ヶ崎の退き口

「金ヶ崎の退き口」の立て札には、まだ『麒麟がくる』しか書いてありませんね。『どうする家康』ではどう描かれるのでしょうか?

月見御殿から金崎宮の入口まで、15~20分程度です。その後、中池見藤ヶ丘駐車場まで戻ると、20分程度かかります。ちなみに、金崎宮付近にも駐車場はあります。

〜難関突破と恋の宮〜 「金崎宮」ホームページへようこそ!
難関突破と恋の宮の金崎宮

 

まとめ

天然の要塞

天筒山城から金ケ崎にかけては、尾根伝いの道が続くため、急勾配で非常に道幅が狭いことがわかります。現在階段がついている場所が多いということは、それだけ斜面が急だということです。したがって大軍で攻略しようとしても、現地に到達することがまず困難であり、落とすのは非常に難しかったことは明らかです。

織田軍は、天筒山城と金ヶ崎城をたったの2日で攻略したと言われています。しかしその際、朝倉軍は金ヶ崎城を半ば放棄するようにして城を明け渡したとあるので、実際の戦闘の規模はそれほど大きくなかったことが推測できます。

しかし攻めにくいというのは、裏を返せば逃げ場がないということでもあります。もし朝倉と浅井から挟み撃ちをされたら、どれだけ耐えられたのか。南北朝時代の「金ヶ崎の戦い」の前例もあるので、それを避けるためにも撤退の道を選んだのではないでしょうか。

加えて、自然地形的に入城しにくかったとはいえ、城の防御が鉄壁だったということではないようです。南北朝時代の守りをそのまま使っていることが多く、戦国時代の、つまりは鉄砲に向けた備えなどはなかったため、10数キロ離れた難攻不落の城・佐柿国吉城まで退却することにしたと言われています。

ちなみに、金ケ崎の戦い前後に織田軍が入城した、佐柿国吉城の鉄壁の守りも実際に見てきましたので、そちらもあわせてご覧ください。

佐柿国吉城跡をめぐる (金ヶ崎の退き口の続き)
金ヶ崎の戦い前後に、信長、秀吉、家康が訪れたのが国吉城です。「国吉城に入れば大丈夫」と秀吉に思わせた強固な守りを、実際に見学してきました。

 

現地を訪れるときの注意点

公共交通機関を使って現地に行く場合、中池見口に行くには、敦賀市のコミュニティバスの東郷線を使うことになるのですが、発車の1時間前までに予約をする必要があります。金ケ崎方面は、いくつかの路線がありますが、本数は限られているので、こちらも事前に調べておくことをおすすめします。

コミュニティバス 敦賀市-Tsuruga City-
「敦賀市コミュニティバス」パソコン版のホームページです。

また、金ケ崎から天筒山山頂を目指すと、非常に階段が多くキツイです。ゆっくり休みながら、また水分持参でお出かけください。

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